四十七年五月二十一日 朝の御理解
X御理解第十六節 無情の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は
無情の風が時を嫌うぞ。
天地金乃神さまのおかげを、金光大神の御取次によって、おかげを頂くという事だと思いますよね、天地金乃神さまのおかげを、生神金光大神の御取次によっておかげを受けるという事、ですから天地金乃神さまのおかげというのは、いわゆる、無情の風は時を嫌わんぞというところまでなんです、天地の働きはそうなんです。
ですけれども、生神金光大神の、いわゆる御神徳によって助からん者が助かり、成らん事が成就しという事になるのです。まあそれをいちいち例を言うと、皆さん自身も色々体験を頂いておられると思うのですけれども、先日、久留米の大場さんが、いつもああして朝の御祈念に参ってみえて、午後の丁度奉仕の時参ってみえまして、今日は商用で福岡の方え参っておりました、ところが電車の中でふらっと致しました時に、もう大変な御神夢と思わなければおられない、お知らせを頂いて、いうなら大変な災難がかかってくるというお知らせであった。
それでそのまま合楽の方へ走って参りましたというのである、そしたら神さまはね、例えばその事がです、もうよかよかどうせ明日の朝は参るけんで、明日の朝お取次を頂こうといっとったら、もうその間に起きとったかもしれません、けれどもお知らせを頂いた、又、御取次を頂いてお願いをしなければおられない程しの衝動というかね、にかられなさったわけですよ、私はそのところがですね、常日ごろの信心がものいうと思うですね、そん時、ちょつとお礼参拝さして頂かねばおられないほどしのおかげ、もうよかよか今度の月次祭に一緒にお礼を申し上げようとゆう人もありますよね、おかげを頂いて。
けれどもこれは一つの衝動になって起こってくる事なんですから、大場さんの場合は、その例えば、大難がかかってくるというお知らせを受けられてです。これはとにかく早くお届けに行かきやという、そういう衝動がなからなければ、二度目もわざわざ遠い所から参っちやこれませんよね、日ごろ、教えを頂いとるけんで、「お願いにはあわててくる氏子があるけれども、お礼にはあわてて出てくる氏子が少ない」と仰せられる。
こういう事何かは淡々とした御教えですけれども、金光様の信心の神髄です、これは実意丁寧ていうのはそれなんです。もうよかよか今度のお参りの時にと、ですからその事がね、行じられる程しの常日ごろの信心が大事だという事、本当にその事が身についておらなければいけん、しかもね衝動となる、駆り立てられる心というようなものが、わいて来なければ次の働きになってこないです。ですからいかに常日ごろからの信心が大事かとゆう事がわかります。
そしたら神様がね言うなら久留米から又一走りこちらえして来た、そのことをお届けにきた、その事でです、もう災難はなくなったと神様はおっしやった、もう実に微妙ですね、実にデリケートです、おかげを受ける受けないのもう紙一重なんです、成程こころしだいです、そん時の自分の動きというものがです。おかげにつながり又はそれと反対の事につながってゆくのですから、やはりそこんところの信心を身につけてゆかねば、私はお道の信心の筋金とゆうのはそこだと思うんですけどね、もうよかよかといったようなところのねない、いうならば実意丁寧神信心とはその事だと思うのです。
実意とは私共の心から、我がままと横着を除けば残るものは実意だという事を金光様は教えておられます。よかよかというのは横着でしょうが、もう明日でよかよかというのは我がまま、ですからそういう時にです、今申します、衝動に駆り立てられて、お礼参拝が出来た止むに止まれん、そういう思いでお願い参拝にきたと、止むに止まれないもの、だからそれは真似ではけして出来るものじゃありませんから、日ごろしっかり信心を身につけておかなければならない。
大場さんのその事でそうゆう運命のもとにあった、その運命が実意丁寧の信心によって払われた。見事に払われた、そういう事が普通でいうならば、天地金乃神さまのお働きはですよ、もう無情の風は時を嫌わんのである、もう災難が起きてくる運命のもとにある人はどうしても、その災難を受けなければ出きんのです。けれども、それから先が違う金光大神の信心お道の信心をさせて頂いて金光大神の御取次によって、だからここにハッキリ天地金乃神の道はとおっしやってない、金光大神の道は無情の風が時を嫌うぞと。
こう吹いてきよるのをです、そこからもう反対の方に吹き変える事が出来る。これは私共が長浜町におりましたころ、それこそもう小屋のようなお家でしたけれど、近所に韓国人の方達が沢山おりましてね闇の焼酎を作っていたんです、その焼ちゅうに火が入ったんですから、もうそれはすごかったです、燃えたのはすぐ私の方が隣でした、それで丁度その時母がきとりました。母は私いまから考えますと、高橋さんの所のすぐ近所に共楽亭ですか寄席があった。
そこえ私が初めて母を連れて、そして共楽亭に漫才かなんかを、見に連れて行って、そして帰りにあの近所で、私は神様を拝む時に、おろうそくを必ず立てましたからね、おローソクの小さいのを一箱買って帰らせて頂いたら、もう家の中が煙りでいっぱいですもん、これはどうした事かと家内に言い寄るうちに、もう隣が落ちあげました。もういっぱい、それこそたきつけのごたる家ですから、丁度その隣の家との間にお便所と風ろ場がありました。そして私共の住まいの方でした、それで丁度、私共が帰つてくるころでしたから、家内が夕ごはんを炊いとりました。
その時、炊いたはがまを一番口に持ち出しとる、もう大事なもんと直感したんでしょうね、それではがまを炊いたばかりのご飯と、それから布団夜具なんかを、出させて頂いてそれから家内子供、母達も全部、風の吹いてくる反対の方へ避難させた。それから私は中へ入って、中からつめました、三ヶ所ありました入り口が、その三つを内から打ちつけましてお神さまを拝もうとさせて頂いた途端に、もう電線が切れてから真っ暗になりました。そん時にですね、やっぱあがっとったですね、ローソクはこの中に入れとるとですよ、そして一生懸命ローソクを探すけれどもローソクがないから、もう真っ暗やみの中で生神金光大神さまと一生懸命拝ませて頂いた。御取次を頂いてお願いをした。
それはもう福岡はアッという間にそれこそ何十台の消防車が集まりますね、そしてまあおかげを頂きましたが、私の方の風ろえ燃え移ろうとゆう時にですね、もうこうやって私の方へ吹いてきよる火がですね、真っすぐに立ったという事です、そしてから、真っすぐ立ったと思うたら反対の方え、こうやってなびいた、燃えてきよる方え家内やら子供達はそん時それを外から見取る。もう外からはじゃんじゃん戸を、私がおるという事がわかったもんですから、それで私は中で一生懸命、御祈念しとった。
もうそれはあがってはおりながらも、ローソクがどこえあるやら、こうていつとってから気がつかん後で本当、あがるとはこんなこっじゃろうかと思うたんですけれども、もう御神前から動かんとゆう気持ちで一生懸命拝んでいた、そしたらね火が一本立ちになった。これなんかは無情の風に神様が時を嫌わせて下さったんですよね、燃えるはずのところを、燃えんですむおかげを頂いた、ですから確かに、これは天地金乃神さまのお働きの上には、もうそこには灰にならなければならない運命があったでしょうけれども、金光大神のお徳によって燃えんですむ程しのかげを頂いた。
私は後から思わせて頂いたんですけれども、あがっとったという事もですけれども、どんなところえいつても、どんな場合であっても、神様のことは一つも忘れていなかったとゆう事ですね。その時分、共楽亭の帰りにローソクだけはこうてきとる、そういう事がね、私は神様の心をいつも動かすと思うのです。ささいな事なんですけど、もうよかよかといったようなものが、その時分は少なかったと思う、昨日も桜井先生達御夫婦にお話した事ですけれども、桜井先生、私が一生懸命の修行をさせて頂いておかげを受けたとゆうのは、三年くらいですよと。
もう本当の修行させて頂いたのは、もうそれこそ水ももらさんとゆう信心なら、あの時分の信心だろう、だからおかげを受けるためには、やあーというような勢いでですね、もうそれこそよかよかといったような信心がダラーっと出来たって駄目ですよと、そんなら教祖金光大神でもそうでしょうが、神様から御神号を受けられた、あの年月日とゆうのを見てご覧なさい、もうほんなわずか、二、三年の間ですよ、生神金光大神になっておられるのは、御伝記を見られるとすぐ分かります。
ですから何十年もこうやって信心したとゆう事じゃない、もち論日ごろから信心深いお方であったけれども、いよいよおかげを受けるとゆう事になられたのは、わずかの間に生神金光大神とゆう御神格を受けられた。これは私共もそうです、ほんな何年かです、お風ろもはいらん、断食修行から一食修行といったような、もうほんなわずかの間です。そしてもうそれこそ、神様から頂いた事は一分一厘でん例えば間違えちやならん、もし間違えたならば、今度はそれに対するところの修行ができた、それこそもう場合によっちや神様が十の修行をせろとおっしやったら十一させてもらった。もうこっちの方がまけときまっしよとゆう修行させて頂いたです。
それは本当です、まあその時分に人は色々もう本当に大坪さんがぼうけたつじやなかろうか、というようにいわれましたけれども、それこそぼうけうるように一生懸命でした。そこでです、私は今朝御神前にでらして頂きましたら、今日の私の御祈念の内容を少し申しますとね、これはどうでも合楽自体がいよいよ、おかげを受けなければならない、とゆう事は皆さんの一人一人がおかげを受けてもらわねばならんという事です。あれ程しの信心が出来るのに、あれだけ熱心な信心が出来るのに、どうしてだろうかと、神様は例えて言うならばです。
無情の風は時を嫌わんというけれども、時を嫌わして下さる程しの働きを頂けれる信心におりながらどうしておかげ受けられんのだろうか、いうなら、合楽的ひとつのガンというようなものをね、こういう信心すりやおかげが受けらますというだけでなくて、そういう信心では、おかげは受けられんという所をね、私は今日いよいよ考えてみたんです。ある先生が親教会で修行さしてもらった、初代の時には大変御比礼の立った教会だそうですけれども、二代三代となってくるうちに、もう本当に閑古鳥が鳴くように寂しゆうなった。
けれどもやはり出社から、向こうに修行に行くのですから、親教会で修行させて頂いて、一年か二年修行させてもらって帰って来てから、何を得て来たかと言うたらね、「こういう事では、現在の親教会では、おかげが受けられんとゆう事をハッキリ見極めてきた」とゆう話を聞かして頂いてです、素晴らしいと私は思うたです。御比礼の立たない親教会にその先生がいって二年たらずの修行させてもらった、そしてハッキリ見えてきたものは、これでは生きた働きがあるはずがない、これではおかげが頂かれんはずだ、信者が減ってしまうはずだとゆう事をです見極めてきた。
大変な修行だったねと、私はいった事です。ですから私共の信心が大抵これだけ一生懸命お願いもしよる、参りもしよる修行もしよるのにどうしておかげが受けられんのだろうかと、なる程これじゃおかげが受けられんはずだとゆうものを、だから発見しなければ駄目です。その事を私は今日、合楽的一つのガンだと、合楽の方達がどうしておかげが受けられんのだろうかとゆう事を、神様にお願いさせて頂きよりましたら、スイカをね一切れ大きく頂いた、半分が種のないところを頂いた。
スイカといや、それこそ水火にも辞さないとゆう修行ですね、合楽の人達は皆んなそうゆう修行精神が強い、だからいっときはむごうやよる、けれどもいっときばかりしょるとですね、このスイカに種がなかったら、さぞよかろうとゆうごたるふうになる、めんどらしゅうなるです、種だすとが合楽の信心は、このよかよかとゆう、さっきから申します、もうよかよか明日でよかよか、こういう実意をかいだところを本気で改められなければ、これはおかげ受けられんなと私は思いました。
成程、合楽はよかよかがおかげを受けらん元を作っておるとゆう事をです、私は今日気づかせて頂いて、初めの間はこうやって丹念に丹念に出しよる、そしてその水火の修行に取り組んどるけれども、もうあと半分位になってくるとです、ほんにこのスイカの種がなかったなら、さぞよかろうとゆうごたるふうになって面倒くさがる訳です。そこに実意をかぐわけです。成程、これではおかげが、それこそ無情の風に時を嫌わす程しの働きを、ここまで頂いとりましてもです、例えばそんなら大場さんが合楽的なお知らせを頂いておられなかったら、そのままそれこそ災難を受けておられたでしょう。
おかげでそんなら、こうやって合楽の場合は、このようにして御教えを頂いとる、ですからその御教えがです、よかよかで放任されるような事であって成程、本当の意味においてのおかげが頂けないはずだとゆう事をわからして頂いて、そこで例えばそんなら少しは面倒くさいでしょうけれどもです、そこんところを修行と思い自分の中にです、その事がかえって有難いとゆうような衝動が起こってくる程しの信心、実意丁寧にそこんところをなされなければおられない程しの信心、そういう信心をいよいよ身につけていかなければ金光大神の御取次のおかげで、ここではいうならば、成らん事が成るおかげ、例えばもう死ぬる運命にある人でも生き返る程しのおかげ、そういうおかげが頂ける信心の道におらして頂きながら、そうゆうおかげが頂けない。
ならないような事が成おかげ、そういうおかげを頂く為にいよいよ実意丁寧神信心をさしてもらわなきやならん、しかも実意丁寧とゆう事をです今日はちょっと違った意味で聞いて頂きました。無情の風は時を嫌わんとゆうが金光大神の道は無情の風が時を嫌わす、運命は運命として、それを感受してゆく、黙って受けてゆくそれが信心だとゆうような宗教も大宗教の中にはあるのですよ、けれども生きとし生けるものがですよ、やはりそこんところを助けて下さいと、いわなければおられないのが私共じつをいうたら人間じゃなかろうか。
もう吹いてくるもんわしょうがなか、それを受けるのが信心だなんていうようなですよ事ではなくて、もしそこに事前にです、それがわかっておるとするなら、どうぞそれをよけさせて下さいとゆう私は祈りを願わなければおられんのが、いくら美しいごとゆうてもです、おかげを頂かねば立ち行かんのが人間ですから、私共はそれが例えば、きたないと言われてもです、やはりおかげを受ける方の信心をとりたいですね、金光大神の道はそうなんです。けれども金光教の中にすらがです、そういう、いうならばおかげを段々、頂けなくなってまた頂けないような教導をしたり、教導を受けたりしている人達もたくさん金光教の中にはあるです。
いうならばキリスト教的になったり、仏教的に金光教がなっていきよるのじやなかろうかと思われるような節がある事です。私はどこまでも金光大神の道は、ここにハッキリおっしやっておられる、金光大神の道は、であるから、金光大神の道は他の宗旨宗派とは違う、そこんところをです、私は頂きぬいてゆく事がお道の信心だと思うですね。 どうぞ